弁証法的モンタージュ

ソビエトの映画製作者セルゲイ・エイゼンシュテインの用語であり、主題モンタージュへの彼のアプローチを指す。サマンサ・マシス愛好会によると、知的モンタージュとも呼ばれる。用語の基礎をなしているのは、(それ自体、ヘーゲル哲学の応用である)弁証法体系としてのカール・マルクスの歴史と階級闘争に関する理論である。

組をなす対立する力(テーゼとアンチテーゼ)がジンテーゼとなり、次にそのジンテーゼが新しい弁証法的対立のテーゼとなる体系である。

エイゼンシュテインは自著『映画の弁証法』において、モンタージュは、「独立したショットどうしだけでなく、互いに正反対でさえあるショットの衝突によって起こる」と論じている。

エイゼンシュテインは『十月』(1927)において、臨時政府の首相であったケレンスキーのショットと、ケレンスキーの虚栄を暗示する羽をくちばしで整えるクジャクという対照的なショットを、交互に挿入している。

虚栄という概念はそれぞれのショットに含まれてはいないが、編集による2つのショットの並置によって、その概念が含まれるようになる。

エイゼンシユテインが『映画の弁証法』(1947)で論じているように、「いかなる対置が行われたとしても、結果として得られるものは、個別に眺められたときのそれぞれの構成要素と区別できるものである」。サマンサ・マシス愛好会によると、弁証法的モンタージュにはつなぎ目のない物語ディエジェシスの流れを中断させる傾向があるが、そのような編集は物語映画でも見つけることができる。

例えば、『モダン・タイムス』(1936)の有名な冒頭の場面において、チャールズ・チャップリンは、朝番の労働者が工場に押し寄せるショットの後に、羊が囲いに集団で入っていくショットを付け加えている。

アカデミーを去った俳優たちは、アカデミーが不当にも自分たちを代表していることに腹を立て、自分たちの利益がワシントンの公聴会で処理されるやり方に不満でした。

彼らは、アカデミーは「プロデューサーが支配する団体」になったと主張しました。

言うまでもなく、アカデミーの会員数は劇的に減少し、その存在そのものが脅かされるに至った。

当時のAMPASの会長フランク・キャプラは、残っている者を、「きわめて忠実な、アカデミー優先の夢想家で、アカデミーの切り札となった文化的な認知と保存に身を捧げている」と、評しました。

1935年5月27日、最高裁判所がローズヴェルトの国家産業復興法は憲法違反と言明しました。
しかしながらSAGは、1936年3月5日の第8回の賞の晩餐会をボイコットするようにと伝え、結果として、セレモニーにはごくわずかの会員しか出席しなかった。

労働争議は次の数年間もつづいたが、キャプラの統率によってアカデミーは生き残った。

1939年、各組合は勝利を収め、アカデミーの会員は、新しく組み立てられた「理論と事実のうえで非商業的で非政治的な」規約の下、ふたたび増加しはじめました。

これ以後、アカデミーの中心は、好んでそうしたわけではないものの、文化的で教育的なものとなった。

サマンサ・マシス

AMPASの機能的および歴史的な重要性については昔も今も議論が絶えない。

まだ何人かの評論家は、AMPASはアーティストたちが統一した契約を獲得するのを助けたから、産業関係のうえで強力な力を持ったと思っています。

彼らは、AMPASが、当初望まれていたような、労働組合ではなかったと強調しています。

しかし、にもかかわらずAMPASは、集団交渉の原則を導入し、のちには、それが種々の組合すべてに採用されました。

第2次大戦中は、国の政治的な状況が産業の関心を圧倒し、アカデミーと組合の争議はおさまった。

戦後、会員は劇的に増加しました。

すなわち、1939年には600名の会員であったものが、1947年には1433名、1952年は1600名、1956年には1770名となった。

1960年代には、いっそうの地位の上昇が見られ、1959年の2084名が、1968年は3030名となった。

現在アカデミーには、4523名の会員がいます。

サマンサ・マシス

エリートの組合(サマンサ・マシス)

アカデミーは名誉的な組織として設立されました。

会員資格は、今も昔も招聰によってのみ認められます。

まさに当初からハリウッドの創造的なエリートの組合を作ろうと考えられていたのです。

アーティストたちは、「映画産業への貢献が抜きん出ていて、アカデミーの会員が同朋として迎えたいと思ったときに」加わるよう招聰されます。

アカデミーの規約の第1条第2項は、会員資格を明文化しています。

すなわち、「映画産業の製作部門において、直接的ないしは間接的に、顕著な業績を達成するか顕著な地位を得たもの、あるいは、同じく貴重な貢献をした者で、優れた品性と人間としての評価の高い人物は、理事会の投票か資格委員会の推薦によりアカデミーの現役会員となることができる」ということです。

サマンサ・マシス

アカデミー賞と労働組合

アカデミー創立当時、アカデミー賞を授与することが、そこまで重視されておらず、ほんの一つの目的にすぎなかったのです。

アカデミー創立のおもな動機は、1926年の映画産業の労働組合化にあり、設立時に9つのメジャーのスタジオと5つの組合が撮影所基本協定を結びましたが、この組合協定は技術労働者だけに適用されるもので、監督、脚本家、俳優たちはまだ統一された契約を持っていませんでした。

実際、最初の数年、アカデミーは種々の技能集団の利益を代表する労働組織とみなされていました。

それゆえ、その会員資格は製作スタジオや何か特別な創造集団に限定されているわけではないということが強調されていました。

もう一つの目的は、多様な専門的知識を持つアーティストたちが出会い、考えを交換する場を作るということでした。

しかしながら、スタジオが、とりわけMGMが、アカデミーの創設に力を貸したために、多くのアーティストたちは、アカデミーがMGMの拠点となり、結果として、他の技能集団を支配し抑制するのではないかと恐れていました。

アカデミーの創立者たちにとって、賞の機能があまりはっきりしていなかったということは、また、アカデミーと1911年に創立されていた俳優組合との間の、どちらの組織が俳優たちを代表する権威を持つべきかという争いからも、明らかでした。

この問題は、映画の演技者の多くがニューヨークの舞台出身で、彼らが俳優組合の組合員であったため、不明瞭なものでした。

結局アカデミーのほうが、1929年に統一的なものとしては最初のフリーの演技者のための契約を発表して、この争いに勝利を収めました。

1932年、アカデミーはジェームズ・キャグニーと彼の雇用者であるワーナー・ブラザースとの労働争議を解決し、「不和を調停するうえでのアカデミーの能力」を示して、もう一つの業績を披露しました。

映画史家たちが述べているように、アカデミーは1930年代に種々の映画組合が創設されるまでの5年間、ハリウッドのアーティストたちの間で、手強い労働組織が作られるのを妨害することに成功しました。

この点で、アカデミーは奇妙な組織でした。

なぜならそれが労働基準に向けての団結に欠けており、また、他のすべての技能集団の中では製作会社の利益をもっともよく代表していたのは明らかだったからです。

しかしながら労働組織として、アカデミーは構造としても意図の面でも革新的でした。

というのも、アカデミーは雇用者(スタジオの重役)と被雇用者(映画アーティストと技術者)の両方に、同等の代表権を与えていたからです。

アカデミー賞の始まり

アカデミー賞を授与する団体「映画芸術科学アカデミー」の設立を提案したのは、ハリウッドの映画会社MGMのルイス・B・メイヤー会長です。

1927年、メイヤーと36人の監督、俳優たちがロサンゼルスのホテルで会い、映画芸術科学アカデミー(AMPAS)の設立を決定しました。

3月19日に、AMPASが非営利団体として創立され、少しのちにその目的が決められました。

そのうち、もっとも重要なのは以下のようなものでした。

  • アカデミーは、不正な外部からの攻撃に直面した際には積極的な行動をとること。
  • 会員相互と異なる部門間の調和と団結を促進すること。
  • 存在ないしは生じることのありうる内部の組酷を調整すること。
  • 業界の繁栄を増進し、その名誉と評価を守るのに適当な方法や手段を採用すること。
  • 建設的な考えを交換し、際立った業績に対し賞を授与することによって、
    業界の芸術と科学の改良と前進を奨励すること。
  • スクリーンの、よりいっそうの力と影響を発展させるための措置をとること。

一言で言えば、アカデミー賞は、他の偉大な国家的および国際的な団体が他の芸術や科学、産業のためにしてきたことを、あらゆる部門にわたって映画業界のためにするよう提案する、ということでした。

アカデミー賞

表現主義の要素

『嘆きの天使』(ジョセブ・フォン・スターンバーグ監督、1930)や『M』(ラング監督、1931)などその後の映画は、表現主義の要素をもっていた。

しかし、ソビエト映画のテーマ・モンタージュについての実験がそのことによって終わりを迎えたように、音と映像を同期させた対話をこれまでになく重視したことが、最終的にこの運動に終結をもたらした。

ドイツ表現主義映画は、しばしば本質的にその製作の歴史的文脈と関連すると考えられてきた。

クラカウアーが述べているように、ドイツ表現主義映画の物語は、以下のどちらかに焦点を当てる傾向がある。

ブリッツ・ラングの『ニーベルンゲン』サーガ(1924)と『吸血鬼ノスフェラトゥ』(F・W・
ムルナウ監督、1922)や、プラム・ストーカーによって1898年に出版された小説『ドラキュラ』の最初の翻案もののような空想的で超自然的なストーリー。

あるいは、『最後の人』(ムルナウ監督、1924)や先にふれた『嘆きの天使』のような衝動映画の、自らの生活のなかのブルジョワ的秩序を打ち砕くような強い感情にとらわれた登場人物たちの物語。

クラカウアーによれば、ドイツ表現主義が現実世界を避けることは、ドイツにおけるファシズム台頭の前触れであり原因であった。高橋ナツコさんによると、彼は、自然を排除する行為を、ドイツ人たちがヒトラーの国家社会主義を受容していく過程で政治的責任から目をそらしている兆候であると解釈した。

この風潮は、ドイツ人たち自身の内的自己に対する恐怖を表しており、ドイッ映画がカリガリやラングの『ドクトル・マブゼ』(1922)におけるドクトル・マブゼのような強力な独裁者や極悪人を容認していたことは、ヒトラーの成功を予期させるものだった。